2024年11月12日火曜日

Oさん

 

画像はイメージです

 営業店からの事務仕事を集中処理する部署なので、お客さんは一切来ないということ、本社中枢部から離れた部署でもあったことから、仕事を引き継いで持ってくる人もいたが、営業店や本来の部署の一線を、何かしらの事情で退いて(病気など)転入してくる人もいた。

 Oさんも以前はバリバリと仕事をこなしていたものの、途中で心の病気になったらしく、転入されてきた。お願いすれば、検印などを押してはくれるものの、宙を見つめて何もしない姿勢を取り続ける姿がよく目に入った。それを見ていると、その当時はなんで何もしないのだろう・・、という疑問しかわかず、ただ見て見ぬふりをする以外なかった。が、後から考えると、自己防衛をとるための姿勢だったのかもしれない、という分析もできるような気がした。

 他にももちろん、そこまで動作停止はしていないものの、同じような経緯で配置転換となってこられた人たちがいる。順風満帆な人生を歩んでいても、いつその風向きが変わるかは、全くわからない。ストレスで精神がこわれる、そんなことはよくある事象なのだろうか。正社員といえど女性はほぼ事務職、責任も給料も総合職とは違っていたので、上司からそんな言葉を言われる機会はなかったが、総合職はそれなりに大変だったのだろう。本人も要領が悪くいっぱいいっぱいだったり、シゴキがあったのだろうか。「この給料泥棒!」というのを上司から怒鳴られてからこわれてしまった、というエピソードもどなたかの話できいたことがある。

 そんなOさんが、ある時に出勤時に先輩のNOさんが見かけると、駅から乗ろうとしていたバスのベンチに座り、立てなくなっていたそうであった。どうしたのか声をかけると、まっすぐ歩こうとすると、横に歩いてしまう、ということを話したそうである。その後、脳梗塞になっていることがわかり、入院し、退院されたかどうかは覚えていないのだが、しばらくしてからある時、亡くなられてしまった。

 体や心をこわされて転入されてきた人もいたが、健康状態が思わしくない方もいて、途中亡くなられたりしたのである。

おとなしさん

 

勤務管理表、というのを使っていたので画像検索したところ、今どきは「勤怠管理表」となっているようである。病気やケガもあるだろうに、休みを「怠け」扱いにするようなイメージがあり、個人的には少しイヤな感じがする。

総務課の仕事で勤務管理表を出していたときだっただろうか。音無さん(おとなしさん)という方がいたのだが、他の部署からの転入者だったので、それもあって話題にしていただろうか、先輩のN井さんが、「音無さん。音があっても、音無さん。」と、ちょっとおどけて言っていたのだが、なぜかこれがどうにも、記憶の隙間に深くはまって忘れられないのである。

2024年10月28日月曜日

人柱(ひとばしら)

 

画像は海外の人柱写真らしきもの

総務の先輩N岡さんが、あるとき、こんなとんでもない話をしていた。私が若くバカな子だったので、からかっていたのだろうか?と思えるトンデモ話だった。

自分たちが今ここでこうしているビルには、人柱が埋まっているということ。それは、どのビルを建設するときも必ずそこに人柱というのが必要で、必ず根元に誰かが埋まっている、と言った話だった。

いや、普通に殺人罪でしょ・・。捜査されるんじゃ、と思うのだが、あまりに神妙な面持ちでまことしやかに話すものだから、ええ?、え・・?といったなんだかキツネにつままれたようなおかしな気持ちにさせられた、という記憶である。

人気テレビシリーズ「世にも奇妙な物語」のネタにでもできそうな話であった。


2024年10月23日水曜日

タコ!!

 


新入社員で入って間もないころのことだった。
 電算処理を行ったり、金券類などの現物を取り扱う業務上、外部者は原則立ち入り禁止であり、そのせいか自動販売機が各フロアに置いてある、などといったこともなかった。
 そして15時前後になると、当番の人が皆の食券を集めて、食堂のあるフロア(地下1階)までエレベーターで降りていき、窓付き冷蔵庫から飲料を取り出し、食券を食堂のおばさんに渡して飲み物を買って皆に配る、というなんだか原始的な作業を行っていたのである。

「なんにしますか?」そのTK(仮名)さんという先輩がよく当番をしてくださっており、その先輩の言葉と声はいまだに記憶に残っている。

 タ〇!!何かの拍子でそんな言葉が、当番をしていた先輩の口から飛び出し、私に向けられたわけだが、ジュースの注文時?配るとき?私が何を言った(した)せいでそんなことを言われたのかはもう覚えてない。 まさか会社でそんなことを言われるとは夢にも思わずあっけにとられた、という記憶しか残っていない。

自分がこの銀行に入社する数年前までは、高卒で新卒入社する事務職の人がかなり多かったようであるが、本当にいろんな人がいたのだろう。特に自分の配属された部署というのはクセの強い人が集まっている、という憶測をしていたわけだが、とにかく、タ〇!!である。

そしてさらに、びっくりしたのは、かなりボーイッシュでしゃれっ気のかけらもないその人(当時20代)が、結婚して子供までいるというのを後できいたことで、それではきっと家でも普通の感覚で子供にタ〇!とやっていたのだろう。





健保からの支給品

 先日、娘も風邪をひいて、ルルはないの?というところから始まり(治りかけのため買わなかった)、近所のマツキヨでルルを見かけたところ、ふとこんなことを思い出した。


年に1回(10月くらいだっただろうか)、健康保険組合からの支給品ということで、いろいろなものがビニール袋に入ったセットがもらえた。たしか毎年その中にルルも入っていたのだが、白い錠剤で甘い糖衣、なじみやすいパッケージから、しばらくお気に入りの風邪薬として、家の常備薬となっていた時期があった。(買うのをさぼってしまって今は切らしている)

他に入っていたものとして、体温計、湿布、マキロン消毒液、胃腸薬、包帯?、ばんそうこう、打ち身用軟膏、目薬、などのそこそこ役に立つものが入っていた記憶がある。

会社も後年、合併や経営統合などで合理化などがすすみ、このようなものはもう配られていないかもしれないが、もらってうれしいセットだったことを覚えている。


会社ブログは、時系列で書こうとすると書けなくなる

 せっかくの自分史なので、時系列順にきちんと順を追って書いていこうと思ったものの、ふとした時に思い出すいろいろなことが、まったく時系列順にでてくるはずもなく、時間のたちすぎたものを掘り起こすようにあえて書こう、というほどしんどいことをする気もおきない。こうなったら出てきたものから片っ端に書いていった方がスムーズに作業がすすむと思われる。書き方を変えて、再度書いていこうと思う。

在りし日のビルディング


久しぶりに以前の会社の所在地を通ったところ

 

なんと、大通り沿いのニトリにとって代わられていた。

二子玉川から目黒駅の間を路線バスが通っており、最近はほとんど乗っていなかったのだが、たまたま気まぐれで乗ってみることにした。そしてたまたま通りかかった、以前会社員として働いていた職場前を通ったところ、ニトリとなっていた。

ニトリからの買収は、2017年のことだったようである。すでに数年前から閉鎖されて、取り壊しが始まっていたのでとても寂しく思っていたが、周りの風景はあまり大きな変化は見られない。また頃合いをみて、周辺散策もしてみたいと思った。

跡地の隣にある建物などは昔のままのものもあり、そのまま思い出を残しながら建っている。

その当時、お茶菓子を買いに行ったケーキ屋のアントワーヌカレーム、たまに同期でお茶しに行ったカフェ・ノーマジーン、向かい側にフランス料理屋アージェント、総務課でお茶菓子を注文した風林堂や小川軒(レーズンサンドが人気だった)などがあり、意外に多くの店が現在も健在のようである。

他には、ブティック・ヴァンサンカンや、駅前の洋風居酒屋(雑居ビル上階)のOh La La、もあったがここら辺はすでにないと思われる。他には、大鳥神社バス停のそばにあった巨大肉まんの店(突発残業の時に買い出しに行き、一つあたり頭ほどの大きさの大きな肉まんが、夜食代わりにふるまわれた)もあった。現ニトリの向かい、二子玉川寄りには、青木病院という個人病院があったが、そちらもすでになくなっただろうか。目黒よりのほうには、デニーズもあったが。

(追記;目黒通りを碑文谷の方に行くと、日本オリベッティ(本社イタリア)と言う会社もあり、キーボード関係?入力用の機械の保守作業でお世話になっていたと思う)

と、いろいろなお店の思い出は後からどんどん出てくるが、元々あった会社の仕事は、他の大通り沿いのビルに移転し、続いているなら現在も、系列子会社の社員さんたちが業務を引き継いでいると思われる。これもずいぶん前だが、会社を退職してからそちらにアルバイトで手伝いに行ったことがある。もともとお世話になった課の課長さんが、人手が欲しく連絡をくれたためであった。その課長さんもかなり前に定年となり、そちらを退職されたというハガキをくださった。時代の流れは本当に早い。