2024年12月31日火曜日

記憶の中のTシャツ

 大阪の梅田あたりで買った記憶のあるTシャツ。当時の柄を正確に覚えているのは無理だが、雰囲気だけ再現してみた。

こんな感じだったかも?しれない。



もっといろいろな線や柄が入っていたかもしれないが、思い出せないので、記憶に残っているものや雰囲気的な印象だけ描いておく。同期のHちゃんには、「そのTシャツ、ものすごくかわいいね!」ととてもほめられたのは覚えている。


 口紅やピアノの絵が入っていたような気がする。ピンク色の丸いキラキラとした透明ジェムビーズがついていて、良いアクセントになっており、関西的なセンスを感じたものだった。また、袖口や首、胴周りなどの端部分に、金色の糸でステッチが施されていた。

2024年12月30日月曜日

アフターファイブいろいろ

 

(制服があったので、各自、思い思いの私服で通勤していた)

ネット通販がなかったそのころ、買い物はオール現地で、ほぼ現金で、渋谷には良く買い物に出かけていた。

たまには合コンに出かけたり(それぞれの知り合いから引っ張って)、ダンススポットにも出かけたり、職場には全く魅力を感じなかったけれども、そうでない場所でそれなりに自由な時間を過ごしていたものだった。

同期で全く交流がなかったかというとそうでもなく、たまの飲み会や、車やバスでスキーなどには少し出かけたことがある。(カップルになる人はいなかったが)
 また比較的、本人の友人関係で多く飲み会に出かけて行ってしまうHちゃんは忙しそうだったので、Nちゃんと二人で五反田のティップネスに通ったり。

あとは、私は高校時代にバレーボールをしていたので、2つ下の後輩がバレー部に入ったという情報を聞いて、それについていく感じで一緒に入ったりしたこと。その中でもスキーにでかけることがあった。

卒業後にこのような仕事しかさせてもらえないののが不服で、学校に通いなおしたり。

 あれもこれも、実家から職場に通っていたために、家賃も食費もタダ、生活に関する経費は実質無料という、今でいう子供部屋なんちゃら、の状態だったから生活に関する苦労は全くというほどなかったので、あれこれできたのだろう。気分的に浮かないものの、9時ー5時まで真面目に働けば、体力的にきつい仕事ではなかった。現代のように、一生働く覚悟が必要な可能性があれば、悪い環境ではなかったものの、昭和の時代を生きた母親、女性は結婚して子供を育ててからが一人前、的な考えで育てられたので、いい人を見つけて結婚して、仕事はその次、という理想を掲げられてすべてをその方向に向けさせられた。
 自分が本当にそれを望んでいたかは別として、そう仕向けられたため、仕事できないやつはクズだ、的にこわい先輩たちや、ある意味あきらめきって機械的になっている中年上司たちが多かったその職場は、非常にしんどかった。(入社半年後の部内移動でフロア変更となり、雰囲気をかなり変えてもらえることに成功したのは幸いであり、会社を早々に辞めなくて済んでよかったと思う。)

 エネルギーの向くままいろいろやったのだが、親の言うとおりにコントロールされてばかりだった自分のできた限界の中でやれたのが、ここらへんだっただろうか。思えば、当時、若者としては楽しいと思われるはずのことをあれこれやってきたのに、納得して本当に楽しめていたのかというとあやしいし、気持ち的に、何かが違うと思いながら、あがき続けていた気がする。

その後、いろいろな人との出会いの中、自分が変わっていきたいなと思うようになって、自分の母親にも反発を覚えたりと、合うと思っていた人と合わなくなったり対人面の変化や紆余曲折が起きてしまい、長いことしんどかったが、後年、親の発達障害について理解したり、いろいろなことがあった。

自動車の運転

 

ラビスタ観音崎テラス、の写真。こちらかどうかはわからないが、このような大窓から、前面に海が広がるごキゲンな風景のホテルがあり、とても気に入っていた。

とにかく若かったので、遊びや人生の充実感が足りなかったので、いろいろなアフターファイブ、週休二日で死後となった「半ドン」後のいろいろなこともしたのである。

(私は高校卒業後の春休みから目黒の教習所に通い始め、夏の終わりごろ?普通免許を取得した。教科が結構覚えにくく苦労し、当時教習所にあった問題暗記用の「練習機」というのを借りてなんとかクリアした記憶があったが)同期の子はどちらも免許がない、またはペーパードライバー、と言う状況で(都内なので必要性もなく)、私だけが運転可能な状態だった。

そこで、そのころは勢いだけで運転していたいい加減ドライバーだったので、自宅からノリで適当に、道路標識を見るだけで「観音崎」というところまでたどり着いて、またノリで適当に帰ってくることができた。半ドンの後、そこに二人を乗せて連れていったこともあった。(今はノリだけで行動するほど軽率ではなくなったため、かえって注意深くなって運転が嫌いになってしまった)

免許取りたての頃の私の技術をある程度までサポートしてくれたのが、亡くなった父で、よく新宿にある父の会社のビルまで運転したり、祖父母の家まで運転したりと、何かと隣に同乗してくれて、その安心感で、ただただノリだけで運転をさせてもらっていたのである。

OLのゆううつ

 


事務の集中部門なので、やっつけ仕事というのか。給料がもらえるのは大事だが、仕事への喜びは全くないと言えた。

総合職男性もみな40代以上で、検印者としてだけの責任を果たすために、転入してきた感があり、9時~5時まで仕事さえしていれば、給料が出て安泰であるというお役所仕事感がすごいというか、新入社員にとっては取りつくしまがないどころか、検印をもらう意外には、背景くらいでしかない存在感に近かった。

3人で昼休みに食堂でご飯を食べ、喫茶室に移動し、時間が来たら職場に戻るのだが、何を話していたかというと、どんな会話だっただろうか。

職場内の人のうわさなら、ひそひそ話だが、あとは、当時見ていたドラマの話(これは、自分は話合わせのために見ていたというしかなかったが)や、なんかいいことないー?という二人からの愚痴のようなセリフや、まったく、あまりいい感じとも思えない、ありきたりのOLの日常であったと思える。

Nちゃんがよく、仕事にもどりたくないー・・、としょっちゅう口にしていた。私はそんなことを食事中に思ったり口にすることはなかったのだが、Nちゃんはそうだったのだろう。もちろん、なんだか期待していた社会人生活とは全然違っていたなあという感じはぬぐえなかったが。


喫茶スペースにて

 


他のメニューまでは記憶に残っていないが、コーヒー・紅茶はあった。
Nちゃんと私はアイスミルクコーヒー、Hちゃんは紅茶をほぼいつも飲んでいたと思う。

アイスミルクコーヒーは、略してアイミコ、と呼んで注文していた。

カウンターに立って注文をうけてくれていたおばさんが何人かいたのだが、覚えているのは、水色のサングラス?をかけていた、やや目つきのクールな感じのおばさんと、私は全く気にしていなかったのだが、注文を受けてから出すまでの時間がかかりすぎてノロイそうで、いつの間にか「トロちゃん」と呼ばれるようになったおばさん、が記憶に残っている。

アイミコは、足すものを注ぐだけなのであっという間にできあがるが、紅茶はそうはいかなかった。茶葉からきちんとお湯を注いで出すため、待ち時間が長いのである。注文してから受け取るまで、その所作が時間がかかり、うーん、面倒くさいメニューなのだなあと良く思い、Hちゃんもまあ、好きなのだからしょうがないなあと思いながら見ていた。

サングラスのおばさんが、若い女の子が娘のように感じたのだろうか?、Hちゃんが時折、アメをもらった?だっただろうか、何か特別おまけをもらったようなことを言っており、「かわいい子は得するのよ。」と、わざわざ自慢げに言っていた。ええ、なに?と思ったが、同じく自分たちも何かをもらえていたような記憶があったが、詳しい中身は覚えていない。




お茶する場所は、食堂とは別のところ

 

画像はイメージです。室内に机といすがあり、ごく一部のスペースには、ソファ風の安楽椅子が置いてあったが、全員座れるほどではなかった。スペースの割に詰め込まれた感があり、椅子の背もたれ同士の距離が近く、着席時や席を立つとき、後ろの人の椅子に当たらないように気を付けなければいけなかった。

食事が終わると、喫茶用メニューを出しているところが別にあるので、いったん建物を出て渡り廊下を通って別棟の建物に入り、喫茶スペースで飲み物を注文していた。

話が変わるが、こちらを先に記載しておく。

入社当時、新入社員は同期3人しかいなかったので、とにかく固まって行動していた。若手は本当に少なく、若くても高校卒業後に入社しているのでベテラン、という先輩、またはすでに職場に完全にとけこんでいる先輩は、少しだけいた。その部署は、他の部署や営業店で事務をしている事務職女性たちが、あちこちから転勤によって集まってきた部署だったのだ。つまり、ある程度経験を積んでから、こちらの部署に来ているのである。

後方事務の集中部門なので、来客はない。いわゆる銀行の窓口のように、お客さんは来ないのである。そこで、仕事はできるがクセが強くて接客向きではなさそうな人?もこちらに転勤させられる傾向があったと思われる。

 職場の雰囲気も怖い大ベテランの先輩が幅を利かせていたし、先輩たちとは異質な感じがしてなんだかボーっとしているといろいろ言われたり怒られそうだったし、なじめなかった。その部署で初めての新人、という状態だったので、別人種だと思われても仕方がない。

いつも3人で固まっていたため、総務課長さんからは、「三羽ガラス」といじられていたが、それもいたしかたなかった。


食堂用食券とKマタさん

 

1連で10枚つづり。たしか50円券が10枚だったと思った。会社と自分の負担が半々であった。(イメージ画像)

食堂は、Bエムサービスという会社が運営していた。箸やスプーン、お盆だけ持って行って自分で各ブースに並んで盛り付けの人にメニューを頼む、という方式だったが、その時に食券を出して注文していたと思う。

食券は、食堂の出入り口に椅子と机がおいてあるが、そこに座っているおばさん(Kマタさん)に、1連綴りの物を何枚購入するかを伝え、代金を支払っていた。(つまり、各メニューの価格は、50円で割り切れる価格だった。)

5枚なら5枚、で枚数を伝えるといつも、「1,2,3,4,5枚。ありがとうございまーす。」と太めの大きな声で、1枚づつはっきりとした口調で数え、手渡ししてくれた。

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そこの責任者?だったのだろうか?よくわからないがそれっぽい雰囲気のZ田さんという男性がいたが、対応もスピーディな感じがするし気が利く感じでさすがな感じがとてもあった。いつもは頼りになる感があるのだが、残念な側面もあった。

 おかずの盛り付けを担当されているときも時々あったが、運営側として節約上手・運営上手なのだと思うがそこが(こちらにとって)災いし、盛り付け上手なのだが、少な目によそっている感が見てわかり、うーん・・。という印象を受けたことがあった。そこはお客の食べる量を節約しないでよ・・、と言いたい気分になったりした。

(今は物価・食費上昇のあおりを受け、ステルス値上げの一環で量やサイズが減ったりしていることもあるが、それとその当時のことでは、場面が違いすぎている。)


阿部君


モデル時代?若かりし頃の阿部寛

職場のT先輩が、俳優の阿部寛と小学校が一緒だったということだった。「阿部君、メンズノンノのモデルしてたけど、そのあとだんだん有名になっていったわ」的な話をしていた。話としては、それだけだったし、先輩にとっても、遠い存在の人なのだなあという感じであった。

小学校が一緒だっただけで、縁もゆかりもない人はごまんといるが、話題としてはまあ、なしではないのか。とても濃い顔のイメージだが、若いときの写真を見るとなかなかのイケメンだったようだ。小学校の時もダントツに背が高く(今は189cmもあるらしい)、イケメンだったのだろうか。


2024年12月12日木曜日

この子の顔を見るとね


(画像はイメージです)


産休明けから復帰したある先輩Tさんの話。復帰からほどなくして退職することとなり、入館証などの回収を行った。

先輩のNさんが、本人からこんな話をきいたのだそうだ。「産休明けからまた仕事を続けようと思ったのだけど、この子の顔をみたらね・・。」ということだそうだった。

 少し変わった趣味の方で、ボディビル?をやっていたそうなのだが、それを通じて知り合った方が旦那さんということだった。結婚前は性格もややきつい方だったようだが、結婚したり子供が生まれたり、その都度だんだんと丸くなっていったということだそうで、それは良かったのでは、と思われる。人生のパートナーとの出会い、新しい家族の誕生を通じて、自分のあるべき姿や道が見つかったのだろうか。

 お子さんが生まれ、退職前にその言葉を残されたそうだが、それは心に残り、なんだか聞いていてとても尊いなあ、という感じがした。




「I」の乱

会社にいると本当にいろんなことがあり、こんな事件があった。とある課長代理さんだった方が、部店長に対して、反旗をひるがえし、何かについて激しく非難し、「私はそんなあなた(部長)にはとても賛同できないし、ついていく気持ちもありません!」的な意見表明をしたようだった。

とにかくかなり前の話だったし、私自身ボーっとしたOLで、もっと理解力があれば、元となった原因についてもっと把握できていたかもしれないが、それについてはわからず、ただ、おそろしく反発していたなあと言う印象だけが残っている。

社内で通常業務外のことを意見したり報告する場合は、「稟議書」というものを書いて提出し、課長や部次長の検印をもらった後、部店内で回覧した。(画像はイメージです)


それとは別に、Iさんの気性が激しすぎるのでは、と思ったことがあった。部長は三浪して今でいうMARCH大学を出ていた(業務上知りえた個人情報だった)が、Iさんはそれをどこかから聞いて知っており、そこをあげつらって、「P部長ってよ、三浪だってよ。バ〇じゃん。」と、エレベータ内でだっただろうか、本人のいないところで思い切り悪口を言っていた(本人は地方の大学出身)ので、それはちょっとひどいなあ、と思ったことだった。