2024年12月30日月曜日

アフターファイブいろいろ

 

(制服があったので、各自、思い思いの私服で通勤していた)

ネット通販がなかったそのころ、買い物はオール現地で、ほぼ現金で、渋谷には良く買い物に出かけていた。

たまには合コンに出かけたり(それぞれの知り合いから引っ張って)、ダンススポットにも出かけたり、職場には全く魅力を感じなかったけれども、そうでない場所でそれなりに自由な時間を過ごしていたものだった。

同期で全く交流がなかったかというとそうでもなく、たまの飲み会や、車やバスでスキーなどには少し出かけたことがある。(カップルになる人はいなかったが)
 また比較的、本人の友人関係で多く飲み会に出かけて行ってしまうHちゃんは忙しそうだったので、Nちゃんと二人で五反田のティップネスに通ったり。

あとは、私は高校時代にバレーボールをしていたので、2つ下の後輩がバレー部に入ったという情報を聞いて、それについていく感じで一緒に入ったりしたこと。その中でもスキーにでかけることがあった。

卒業後にこのような仕事しかさせてもらえないののが不服で、学校に通いなおしたり。

 あれもこれも、実家から職場に通っていたために、家賃も食費もタダ、生活に関する経費は実質無料という、今でいう子供部屋なんちゃら、の状態だったから生活に関する苦労は全くというほどなかったので、あれこれできたのだろう。気分的に浮かないものの、9時ー5時まで真面目に働けば、体力的にきつい仕事ではなかった。現代のように、一生働く覚悟が必要な可能性があれば、悪い環境ではなかったものの、昭和の時代を生きた母親、女性は結婚して子供を育ててからが一人前、的な考えで育てられたので、いい人を見つけて結婚して、仕事はその次、という理想を掲げられてすべてをその方向に向けさせられた。
 自分が本当にそれを望んでいたかは別として、そう仕向けられたため、仕事できないやつはクズだ、的にこわい先輩たちや、ある意味あきらめきって機械的になっている中年上司たちが多かったその職場は、非常にしんどかった。(入社半年後の部内移動でフロア変更となり、雰囲気をかなり変えてもらえることに成功したのは幸いであり、会社を早々に辞めなくて済んでよかったと思う。)

 エネルギーの向くままいろいろやったのだが、親の言うとおりにコントロールされてばかりだった自分のできた限界の中でやれたのが、ここらへんだっただろうか。思えば、当時、若者としては楽しいと思われるはずのことをあれこれやってきたのに、納得して本当に楽しめていたのかというとあやしいし、気持ち的に、何かが違うと思いながら、あがき続けていた気がする。

その後、いろいろな人との出会いの中、自分が変わっていきたいなと思うようになって、自分の母親にも反発を覚えたりと、合うと思っていた人と合わなくなったり対人面の変化や紆余曲折が起きてしまい、長いことしんどかったが、後年、親の発達障害について理解したり、いろいろなことがあった。

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