2024年12月31日火曜日

記憶の中のTシャツ

 大阪の梅田あたりで買った記憶のあるTシャツ。当時の柄を正確に覚えているのは無理だが、雰囲気だけ再現してみた。

こんな感じだったかも?しれない。



もっといろいろな線や柄が入っていたかもしれないが、思い出せないので、記憶に残っているものや雰囲気的な印象だけ描いておく。同期のHちゃんには、「そのTシャツ、ものすごくかわいいね!」ととてもほめられたのは覚えている。


 口紅やピアノの絵が入っていたような気がする。ピンク色の丸いキラキラとした透明ジェムビーズがついていて、良いアクセントになっており、関西的なセンスを感じたものだった。また、袖口や首、胴周りなどの端部分に、金色の糸でステッチが施されていた。

2024年12月30日月曜日

アフターファイブいろいろ

 

(制服があったので、各自、思い思いの私服で通勤していた)

ネット通販がなかったそのころ、買い物はオール現地で、ほぼ現金で、渋谷には良く買い物に出かけていた。

たまには合コンに出かけたり(それぞれの知り合いから引っ張って)、ダンススポットにも出かけたり、職場には全く魅力を感じなかったけれども、そうでない場所でそれなりに自由な時間を過ごしていたものだった。

同期で全く交流がなかったかというとそうでもなく、たまの飲み会や、車やバスでスキーなどには少し出かけたことがある。(カップルになる人はいなかったが)
 また比較的、本人の友人関係で多く飲み会に出かけて行ってしまうHちゃんは忙しそうだったので、Nちゃんと二人で五反田のティップネスに通ったり。

あとは、私は高校時代にバレーボールをしていたので、2つ下の後輩がバレー部に入ったという情報を聞いて、それについていく感じで一緒に入ったりしたこと。その中でもスキーにでかけることがあった。

卒業後にこのような仕事しかさせてもらえないののが不服で、学校に通いなおしたり。

 あれもこれも、実家から職場に通っていたために、家賃も食費もタダ、生活に関する経費は実質無料という、今でいう子供部屋なんちゃら、の状態だったから生活に関する苦労は全くというほどなかったので、あれこれできたのだろう。気分的に浮かないものの、9時ー5時まで真面目に働けば、体力的にきつい仕事ではなかった。現代のように、一生働く覚悟が必要な可能性があれば、悪い環境ではなかったものの、昭和の時代を生きた母親、女性は結婚して子供を育ててからが一人前、的な考えで育てられたので、いい人を見つけて結婚して、仕事はその次、という理想を掲げられてすべてをその方向に向けさせられた。
 自分が本当にそれを望んでいたかは別として、そう仕向けられたため、仕事できないやつはクズだ、的にこわい先輩たちや、ある意味あきらめきって機械的になっている中年上司たちが多かったその職場は、非常にしんどかった。(入社半年後の部内移動でフロア変更となり、雰囲気をかなり変えてもらえることに成功したのは幸いであり、会社を早々に辞めなくて済んでよかったと思う。)

 エネルギーの向くままいろいろやったのだが、親の言うとおりにコントロールされてばかりだった自分のできた限界の中でやれたのが、ここらへんだっただろうか。思えば、当時、若者としては楽しいと思われるはずのことをあれこれやってきたのに、納得して本当に楽しめていたのかというとあやしいし、気持ち的に、何かが違うと思いながら、あがき続けていた気がする。

その後、いろいろな人との出会いの中、自分が変わっていきたいなと思うようになって、自分の母親にも反発を覚えたりと、合うと思っていた人と合わなくなったり対人面の変化や紆余曲折が起きてしまい、長いことしんどかったが、後年、親の発達障害について理解したり、いろいろなことがあった。

自動車の運転

 

ラビスタ観音崎テラス、の写真。こちらかどうかはわからないが、このような大窓から、前面に海が広がるごキゲンな風景のホテルがあり、とても気に入っていた。

とにかく若かったので、遊びや人生の充実感が足りなかったので、いろいろなアフターファイブ、週休二日で死後となった「半ドン」後のいろいろなこともしたのである。

(私は高校卒業後の春休みから目黒の教習所に通い始め、夏の終わりごろ?普通免許を取得した。教科が結構覚えにくく苦労し、当時教習所にあった問題暗記用の「練習機」というのを借りてなんとかクリアした記憶があったが)同期の子はどちらも免許がない、またはペーパードライバー、と言う状況で(都内なので必要性もなく)、私だけが運転可能な状態だった。

そこで、そのころは勢いだけで運転していたいい加減ドライバーだったので、自宅からノリで適当に、道路標識を見るだけで「観音崎」というところまでたどり着いて、またノリで適当に帰ってくることができた。半ドンの後、そこに二人を乗せて連れていったこともあった。(今はノリだけで行動するほど軽率ではなくなったため、かえって注意深くなって運転が嫌いになってしまった)

免許取りたての頃の私の技術をある程度までサポートしてくれたのが、亡くなった父で、よく新宿にある父の会社のビルまで運転したり、祖父母の家まで運転したりと、何かと隣に同乗してくれて、その安心感で、ただただノリだけで運転をさせてもらっていたのである。

OLのゆううつ

 


事務の集中部門なので、やっつけ仕事というのか。給料がもらえるのは大事だが、仕事への喜びは全くないと言えた。

総合職男性もみな40代以上で、検印者としてだけの責任を果たすために、転入してきた感があり、9時~5時まで仕事さえしていれば、給料が出て安泰であるというお役所仕事感がすごいというか、新入社員にとっては取りつくしまがないどころか、検印をもらう意外には、背景くらいでしかない存在感に近かった。

3人で昼休みに食堂でご飯を食べ、喫茶室に移動し、時間が来たら職場に戻るのだが、何を話していたかというと、どんな会話だっただろうか。

職場内の人のうわさなら、ひそひそ話だが、あとは、当時見ていたドラマの話(これは、自分は話合わせのために見ていたというしかなかったが)や、なんかいいことないー?という二人からの愚痴のようなセリフや、まったく、あまりいい感じとも思えない、ありきたりのOLの日常であったと思える。

Nちゃんがよく、仕事にもどりたくないー・・、としょっちゅう口にしていた。私はそんなことを食事中に思ったり口にすることはなかったのだが、Nちゃんはそうだったのだろう。もちろん、なんだか期待していた社会人生活とは全然違っていたなあという感じはぬぐえなかったが。


喫茶スペースにて

 


他のメニューまでは記憶に残っていないが、コーヒー・紅茶はあった。
Nちゃんと私はアイスミルクコーヒー、Hちゃんは紅茶をほぼいつも飲んでいたと思う。

アイスミルクコーヒーは、略してアイミコ、と呼んで注文していた。

カウンターに立って注文をうけてくれていたおばさんが何人かいたのだが、覚えているのは、水色のサングラス?をかけていた、やや目つきのクールな感じのおばさんと、私は全く気にしていなかったのだが、注文を受けてから出すまでの時間がかかりすぎてノロイそうで、いつの間にか「トロちゃん」と呼ばれるようになったおばさん、が記憶に残っている。

アイミコは、足すものを注ぐだけなのであっという間にできあがるが、紅茶はそうはいかなかった。茶葉からきちんとお湯を注いで出すため、待ち時間が長いのである。注文してから受け取るまで、その所作が時間がかかり、うーん、面倒くさいメニューなのだなあと良く思い、Hちゃんもまあ、好きなのだからしょうがないなあと思いながら見ていた。

サングラスのおばさんが、若い女の子が娘のように感じたのだろうか?、Hちゃんが時折、アメをもらった?だっただろうか、何か特別おまけをもらったようなことを言っており、「かわいい子は得するのよ。」と、わざわざ自慢げに言っていた。ええ、なに?と思ったが、同じく自分たちも何かをもらえていたような記憶があったが、詳しい中身は覚えていない。




お茶する場所は、食堂とは別のところ

 

画像はイメージです。室内に机といすがあり、ごく一部のスペースには、ソファ風の安楽椅子が置いてあったが、全員座れるほどではなかった。スペースの割に詰め込まれた感があり、椅子の背もたれ同士の距離が近く、着席時や席を立つとき、後ろの人の椅子に当たらないように気を付けなければいけなかった。

食事が終わると、喫茶用メニューを出しているところが別にあるので、いったん建物を出て渡り廊下を通って別棟の建物に入り、喫茶スペースで飲み物を注文していた。

話が変わるが、こちらを先に記載しておく。

入社当時、新入社員は同期3人しかいなかったので、とにかく固まって行動していた。若手は本当に少なく、若くても高校卒業後に入社しているのでベテラン、という先輩、またはすでに職場に完全にとけこんでいる先輩は、少しだけいた。その部署は、他の部署や営業店で事務をしている事務職女性たちが、あちこちから転勤によって集まってきた部署だったのだ。つまり、ある程度経験を積んでから、こちらの部署に来ているのである。

後方事務の集中部門なので、来客はない。いわゆる銀行の窓口のように、お客さんは来ないのである。そこで、仕事はできるがクセが強くて接客向きではなさそうな人?もこちらに転勤させられる傾向があったと思われる。

 職場の雰囲気も怖い大ベテランの先輩が幅を利かせていたし、先輩たちとは異質な感じがしてなんだかボーっとしているといろいろ言われたり怒られそうだったし、なじめなかった。その部署で初めての新人、という状態だったので、別人種だと思われても仕方がない。

いつも3人で固まっていたため、総務課長さんからは、「三羽ガラス」といじられていたが、それもいたしかたなかった。


食堂用食券とKマタさん

 

1連で10枚つづり。たしか50円券が10枚だったと思った。会社と自分の負担が半々であった。(イメージ画像)

食堂は、Bエムサービスという会社が運営していた。箸やスプーン、お盆だけ持って行って自分で各ブースに並んで盛り付けの人にメニューを頼む、という方式だったが、その時に食券を出して注文していたと思う。

食券は、食堂の出入り口に椅子と机がおいてあるが、そこに座っているおばさん(Kマタさん)に、1連綴りの物を何枚購入するかを伝え、代金を支払っていた。(つまり、各メニューの価格は、50円で割り切れる価格だった。)

5枚なら5枚、で枚数を伝えるといつも、「1,2,3,4,5枚。ありがとうございまーす。」と太めの大きな声で、1枚づつはっきりとした口調で数え、手渡ししてくれた。

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そこの責任者?だったのだろうか?よくわからないがそれっぽい雰囲気のZ田さんという男性がいたが、対応もスピーディな感じがするし気が利く感じでさすがな感じがとてもあった。いつもは頼りになる感があるのだが、残念な側面もあった。

 おかずの盛り付けを担当されているときも時々あったが、運営側として節約上手・運営上手なのだと思うがそこが(こちらにとって)災いし、盛り付け上手なのだが、少な目によそっている感が見てわかり、うーん・・。という印象を受けたことがあった。そこはお客の食べる量を節約しないでよ・・、と言いたい気分になったりした。

(今は物価・食費上昇のあおりを受け、ステルス値上げの一環で量やサイズが減ったりしていることもあるが、それとその当時のことでは、場面が違いすぎている。)


阿部君


モデル時代?若かりし頃の阿部寛

職場のT先輩が、俳優の阿部寛と小学校が一緒だったということだった。「阿部君、メンズノンノのモデルしてたけど、そのあとだんだん有名になっていったわ」的な話をしていた。話としては、それだけだったし、先輩にとっても、遠い存在の人なのだなあという感じであった。

小学校が一緒だっただけで、縁もゆかりもない人はごまんといるが、話題としてはまあ、なしではないのか。とても濃い顔のイメージだが、若いときの写真を見るとなかなかのイケメンだったようだ。小学校の時もダントツに背が高く(今は189cmもあるらしい)、イケメンだったのだろうか。


2024年12月12日木曜日

この子の顔を見るとね


(画像はイメージです)


産休明けから復帰したある先輩Tさんの話。復帰からほどなくして退職することとなり、入館証などの回収を行った。

先輩のNさんが、本人からこんな話をきいたのだそうだ。「産休明けからまた仕事を続けようと思ったのだけど、この子の顔をみたらね・・。」ということだそうだった。

 少し変わった趣味の方で、ボディビル?をやっていたそうなのだが、それを通じて知り合った方が旦那さんということだった。結婚前は性格もややきつい方だったようだが、結婚したり子供が生まれたり、その都度だんだんと丸くなっていったということだそうで、それは良かったのでは、と思われる。人生のパートナーとの出会い、新しい家族の誕生を通じて、自分のあるべき姿や道が見つかったのだろうか。

 お子さんが生まれ、退職前にその言葉を残されたそうだが、それは心に残り、なんだか聞いていてとても尊いなあ、という感じがした。




「I」の乱

会社にいると本当にいろんなことがあり、こんな事件があった。とある課長代理さんだった方が、部店長に対して、反旗をひるがえし、何かについて激しく非難し、「私はそんなあなた(部長)にはとても賛同できないし、ついていく気持ちもありません!」的な意見表明をしたようだった。

とにかくかなり前の話だったし、私自身ボーっとしたOLで、もっと理解力があれば、元となった原因についてもっと把握できていたかもしれないが、それについてはわからず、ただ、おそろしく反発していたなあと言う印象だけが残っている。

社内で通常業務外のことを意見したり報告する場合は、「稟議書」というものを書いて提出し、課長や部次長の検印をもらった後、部店内で回覧した。(画像はイメージです)


それとは別に、Iさんの気性が激しすぎるのでは、と思ったことがあった。部長は三浪して今でいうMARCH大学を出ていた(業務上知りえた個人情報だった)が、Iさんはそれをどこかから聞いて知っており、そこをあげつらって、「P部長ってよ、三浪だってよ。バ〇じゃん。」と、エレベータ内でだっただろうか、本人のいないところで思い切り悪口を言っていた(本人は地方の大学出身)ので、それはちょっとひどいなあ、と思ったことだった。


2024年11月17日日曜日

きんさんぎんさん

 

「きんは、百歳、百歳。ぎんも、百歳、百歳。」というなつかしのCM。

双子の長寿姉妹がCMに登場して有名となり、一世を風靡した。

双子であること、名前がきん・ぎん、と親しみやすく覚えやすいお名前であることから、あっという間に世間に広まったと思われる。

 部署内に、五十歳台の大ベテランの独身女性先輩が二名いらした。その年齢まで働いてこられたお二人は、それなりの人生経験を積んだ先輩たちで、独特の強いキャラクター、強い個性を持たれ、職場でも自分の世界なりペースなりを構築されていた様子だった。話していても特に怖さや険を感じることもなかったし、年齢が違いすぎてこちらが相手にされていなかったような印象もあるので、ただ、上の人、という印象しかなかった。

 当時の社内システムだと、女性事務職は、職位や給料が30歳でも少しあがるが、40歳になると大きく上がる感じであったし、偉い人、という印象があった。日本の年功序列・終身雇用の流れが濃かった時代である。お二人は当時すでに、自宅マンション(一人世帯用)を購入されたそうだったし、悠々自適の退職後?を過ごされている(いた?)だろうか。

 そんなお二人を、職場の総合職男性(=「検印者」。自分から見ると年配の方ばかりの職場であった)たちが、「きんさん・ぎんさん」と茶化して呼んでいたことを覚えている。55歳で役職定年(再雇用制あり)、というのは今も同じだと思われるが、定年近いお二人だった。


2024年11月14日木曜日

LTさん

 

(イメージ画像)

 LTさん(女性の同期)は、システム関連部署への配属だったので、敷地は同じだが建物は違うものの、同じ若手同士だったしすぐに顔見知りになり、笑顔であいさつをかわす、フレンドリーな関係であった。

 とても笑顔が素敵でかわいらしく、私はそんなLTさんと笑顔を交わすのが好きだったのだが、当時、スキーで足にけがをしたという話をきいた。松葉づえを使いながら足をひきずるLTさんだったが、笑顔が全く消えてしまって、私ともほとんど目を合わせたくないという雰囲気になってしまっており、すっかり灯が消えたような近寄りにくい雰囲気になってしまっていた。

 それだけ本人は深刻だったのだろう。そんな本人と同じ体験を味わうこともできないし、同じ気持ちになることもできないので、LTさんの表情の激変にただただどうしてよいかわからなかった。隠れた人の気持ちを察するのはどちらかというと苦手な自分、今よりもっとバカでKYで、天真爛漫なふるまいをしていた私を見るのも、しんどくなっていたのかもしれない。

 入社4年目で私の父が亡くなったときに、システム関連部署に多く入社・転入してきた同期の人たちがお香典をくださったのだが、そちらにLTさんの名前も入っていたが、いつのまにか実際に顔を合わせることはほとんどなくなっていた。

ダブルファンタジー

 

在りし日のその店は、コンクリ打ちっぱなし、もしくはそれに近いダークカラーの壁に囲まれたバーだった。(イメージ画像です。)

仕事の後で数度ほど立ち寄ったことのあるバーがあり、たしか「ダブルファンタジー」という店名だった。今はないが、同期の女の子たちと立ち寄ったり、関連会社の人と一度ほど飲み会したり、職場の若者プラス上司一人、というメンツで年末の打ち上げをしたりと、ここを思い出すと、他の思い出にもリンクしてくる。

目黒駅の裏側にあり、落ち着く感じのバーであったが、かなり前に閉店しており、跡地には雰囲気の良いカフェが開店して今に続くようである。

2024年11月12日火曜日

Oさん

 

画像はイメージです

 営業店からの事務仕事を集中処理する部署なので、お客さんは一切来ないということ、本社中枢部から離れた部署でもあったことから、仕事を引き継いで持ってくる人もいたが、営業店や本来の部署の一線を、何かしらの事情で退いて(病気など)転入してくる人もいた。

 Oさんも以前はバリバリと仕事をこなしていたものの、途中で心の病気になったらしく、転入されてきた。お願いすれば、検印などを押してはくれるものの、宙を見つめて何もしない姿勢を取り続ける姿がよく目に入った。それを見ていると、その当時はなんで何もしないのだろう・・、という疑問しかわかず、ただ見て見ぬふりをする以外なかった。が、後から考えると、自己防衛をとるための姿勢だったのかもしれない、という分析もできるような気がした。

 他にももちろん、そこまで動作停止はしていないものの、同じような経緯で配置転換となってこられた人たちがいる。順風満帆な人生を歩んでいても、いつその風向きが変わるかは、全くわからない。ストレスで精神がこわれる、そんなことはよくある事象なのだろうか。正社員といえど女性はほぼ事務職、責任も給料も総合職とは違っていたので、上司からそんな言葉を言われる機会はなかったが、総合職はそれなりに大変だったのだろう。本人も要領が悪くいっぱいいっぱいだったり、シゴキがあったのだろうか。「この給料泥棒!」というのを上司から怒鳴られてからこわれてしまった、というエピソードもどなたかの話できいたことがある。

 そんなOさんが、ある時に出勤時に先輩のNOさんが見かけると、駅から乗ろうとしていたバスのベンチに座り、立てなくなっていたそうであった。どうしたのか声をかけると、まっすぐ歩こうとすると、横に歩いてしまう、ということを話したそうである。その後、脳梗塞になっていることがわかり、入院し、退院されたかどうかは覚えていないのだが、しばらくしてからある時、亡くなられてしまった。

 体や心をこわされて転入されてきた人もいたが、健康状態が思わしくない方もいて、途中亡くなられたりしたのである。

おとなしさん

 

勤務管理表、というのを使っていたので画像検索したところ、今どきは「勤怠管理表」となっているようである。病気やケガもあるだろうに、休みを「怠け」扱いにするようなイメージがあり、個人的には少しイヤな感じがする。

総務課の仕事で勤務管理表を出していたときだっただろうか。音無さん(おとなしさん)という方がいたのだが、他の部署からの転入者だったので、それもあって話題にしていただろうか、先輩のN井さんが、「音無さん。音があっても、音無さん。」と、ちょっとおどけて言っていたのだが、なぜかこれがどうにも、記憶の隙間に深くはまって忘れられないのである。

2024年10月28日月曜日

人柱(ひとばしら)

 

画像は海外の人柱写真らしきもの

総務の先輩N岡さんが、あるとき、こんなとんでもない話をしていた。私が若くバカな子だったので、からかっていたのだろうか?と思えるトンデモ話だった。

自分たちが今ここでこうしているビルには、人柱が埋まっているということ。それは、どのビルを建設するときも必ずそこに人柱というのが必要で、必ず根元に誰かが埋まっている、と言った話だった。

いや、普通に殺人罪でしょ・・。捜査されるんじゃ、と思うのだが、あまりに神妙な面持ちでまことしやかに話すものだから、ええ?、え・・?といったなんだかキツネにつままれたようなおかしな気持ちにさせられた、という記憶である。

人気テレビシリーズ「世にも奇妙な物語」のネタにでもできそうな話であった。


2024年10月23日水曜日

タコ!!

 


新入社員で入って間もないころのことだった。
 電算処理を行ったり、金券類などの現物を取り扱う業務上、外部者は原則立ち入り禁止であり、そのせいか自動販売機が各フロアに置いてある、などといったこともなかった。
 そして15時前後になると、当番の人が皆の食券を集めて、食堂のあるフロア(地下1階)までエレベーターで降りていき、窓付き冷蔵庫から飲料を取り出し、食券を食堂のおばさんに渡して飲み物を買って皆に配る、というなんだか原始的な作業を行っていたのである。

「なんにしますか?」そのTK(仮名)さんという先輩がよく当番をしてくださっており、その先輩の言葉と声はいまだに記憶に残っている。

 タ〇!!何かの拍子でそんな言葉が、当番をしていた先輩の口から飛び出し、私に向けられたわけだが、ジュースの注文時?配るとき?私が何を言った(した)せいでそんなことを言われたのかはもう覚えてない。 まさか会社でそんなことを言われるとは夢にも思わずあっけにとられた、という記憶しか残っていない。

自分がこの銀行に入社する数年前までは、高卒で新卒入社する事務職の人がかなり多かったようであるが、本当にいろんな人がいたのだろう。特に自分の配属された部署というのはクセの強い人が集まっている、という憶測をしていたわけだが、とにかく、タ〇!!である。

そしてさらに、びっくりしたのは、かなりボーイッシュでしゃれっ気のかけらもないその人(当時20代)が、結婚して子供までいるというのを後できいたことで、それではきっと家でも普通の感覚で子供にタ〇!とやっていたのだろう。





健保からの支給品

 先日、娘も風邪をひいて、ルルはないの?というところから始まり(治りかけのため買わなかった)、近所のマツキヨでルルを見かけたところ、ふとこんなことを思い出した。


年に1回(10月くらいだっただろうか)、健康保険組合からの支給品ということで、いろいろなものがビニール袋に入ったセットがもらえた。たしか毎年その中にルルも入っていたのだが、白い錠剤で甘い糖衣、なじみやすいパッケージから、しばらくお気に入りの風邪薬として、家の常備薬となっていた時期があった。(買うのをさぼってしまって今は切らしている)

他に入っていたものとして、体温計、湿布、マキロン消毒液、胃腸薬、包帯?、ばんそうこう、打ち身用軟膏、目薬、などのそこそこ役に立つものが入っていた記憶がある。

会社も後年、合併や経営統合などで合理化などがすすみ、このようなものはもう配られていないかもしれないが、もらってうれしいセットだったことを覚えている。


会社ブログは、時系列で書こうとすると書けなくなる

 せっかくの自分史なので、時系列順にきちんと順を追って書いていこうと思ったものの、ふとした時に思い出すいろいろなことが、まったく時系列順にでてくるはずもなく、時間のたちすぎたものを掘り起こすようにあえて書こう、というほどしんどいことをする気もおきない。こうなったら出てきたものから片っ端に書いていった方がスムーズに作業がすすむと思われる。書き方を変えて、再度書いていこうと思う。

在りし日のビルディング


久しぶりに以前の会社の所在地を通ったところ

 

なんと、大通り沿いのニトリにとって代わられていた。

二子玉川から目黒駅の間を路線バスが通っており、最近はほとんど乗っていなかったのだが、たまたま気まぐれで乗ってみることにした。そしてたまたま通りかかった、以前会社員として働いていた職場前を通ったところ、ニトリとなっていた。

ニトリからの買収は、2017年のことだったようである。すでに数年前から閉鎖されて、取り壊しが始まっていたのでとても寂しく思っていたが、周りの風景はあまり大きな変化は見られない。また頃合いをみて、周辺散策もしてみたいと思った。

跡地の隣にある建物などは昔のままのものもあり、そのまま思い出を残しながら建っている。

その当時、お茶菓子を買いに行ったケーキ屋のアントワーヌカレーム、たまに同期でお茶しに行ったカフェ・ノーマジーン、向かい側にフランス料理屋アージェント、総務課でお茶菓子を注文した風林堂や小川軒(レーズンサンドが人気だった)などがあり、意外に多くの店が現在も健在のようである。

他には、ブティック・ヴァンサンカンや、駅前の洋風居酒屋(雑居ビル上階)のOh La La、もあったがここら辺はすでにないと思われる。他には、大鳥神社バス停のそばにあった巨大肉まんの店(突発残業の時に買い出しに行き、一つあたり頭ほどの大きさの大きな肉まんが、夜食代わりにふるまわれた)もあった。現ニトリの向かい、二子玉川寄りには、青木病院という個人病院があったが、そちらもすでになくなっただろうか。目黒よりのほうには、デニーズもあったが。

(追記;目黒通りを碑文谷の方に行くと、日本オリベッティ(本社イタリア)と言う会社もあり、キーボード関係?入力用の機械の保守作業でお世話になっていたと思う)

と、いろいろなお店の思い出は後からどんどん出てくるが、元々あった会社の仕事は、他の大通り沿いのビルに移転し、続いているなら現在も、系列子会社の社員さんたちが業務を引き継いでいると思われる。これもずいぶん前だが、会社を退職してからそちらにアルバイトで手伝いに行ったことがある。もともとお世話になった課の課長さんが、人手が欲しく連絡をくれたためであった。その課長さんもかなり前に定年となり、そちらを退職されたというハガキをくださった。時代の流れは本当に早い。




2024年1月6日土曜日

7階フロアの話

 部内移動のあった前のフロアは、6階、移動後の総務課は、たしか7階にあったと思う。7階の総務課のとなりは、パーテーションがあってそちらに、協力会社のパートのおばちゃんたちの常駐しているところ、他方にパーテーションはないが、第四課というところがあり、ATMカードや手形小切手を発行印刷したりする部署があった。



第四課に一つ上の先輩がいたが、職場以外での交流は特になかったが、とてもきれいでかわいく、ポパイに出てくるオリーブのような細い、手足の長い体型で色も白く、白人ぽい感じもある外見の先輩がいた。(もしかして、ハーフなどだったのかは聞かずじまいだったが)(N井さん)人事異動で本社からこちらに業務ごと移動してきたということだったが、入社2年目でかなりの重責なのではなかっただろうか。


Z本さーん、さようなら!w

 


もちろん昔の話だし、一瞬で視界から消え去ったクマのソフビ人形だったので、イメージでしか覚えておらず、こんな感じだったかな?というくらいでしか写真は選べない。全体像は上の写真ぽくて、顔つきは下の写真が似たイメージかもしれない。


 総務課での話の続き。机内の整理整頓をしていた。いろんな不用品を取り出して、ゴミ分類に入れていたときのこと。先輩のN岡さんが、会社の粗品であった、小さなクマのソフビ人形を取り出し、これも捨てちゃおう!となり、その時に、定年間近の大先輩であったZ本さんにそのキョロンとした目つきがそっくりだ、という話をしていた。

 が、ゴミはゴミである。ゴミの箱に投げ入れるとき、N岡さんが、「Z本さーん、さようなら!w」と言いながらそこに突っ込んでいたのを覚えている。