大阪の梅田あたりで買った記憶のあるTシャツ。当時の柄を正確に覚えているのは無理だが、雰囲気だけ再現してみた。
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| こんな感じだったかも?しれない。 |
| もっといろいろな線や柄が入っていたかもしれないが、思い出せないので、記憶に残っているものや雰囲気的な印象だけ描いておく。同期のHちゃんには、「そのTシャツ、ものすごくかわいいね!」ととてもほめられたのは覚えている。 |
| (制服があったので、各自、思い思いの私服で通勤していた) |
| ラビスタ観音崎テラス、の写真。こちらかどうかはわからないが、このような大窓から、前面に海が広がるごキゲンな風景のホテルがあり、とても気に入っていた。 |
事務の集中部門なので、やっつけ仕事というのか。給料がもらえるのは大事だが、仕事への喜びは全くないと言えた。
総合職男性もみな40代以上で、検印者としてだけの責任を果たすために、転入してきた感があり、9時~5時まで仕事さえしていれば、給料が出て安泰であるというお役所仕事感がすごいというか、新入社員にとっては取りつくしまがないどころか、検印をもらう意外には、背景くらいでしかない存在感に近かった。
3人で昼休みに食堂でご飯を食べ、喫茶室に移動し、時間が来たら職場に戻るのだが、何を話していたかというと、どんな会話だっただろうか。
職場内の人のうわさなら、ひそひそ話だが、あとは、当時見ていたドラマの話(これは、自分は話合わせのために見ていたというしかなかったが)や、なんかいいことないー?という二人からの愚痴のようなセリフや、まったく、あまりいい感じとも思えない、ありきたりのOLの日常であったと思える。
Nちゃんがよく、仕事にもどりたくないー・・、としょっちゅう口にしていた。私はそんなことを食事中に思ったり口にすることはなかったのだが、Nちゃんはそうだったのだろう。もちろん、なんだか期待していた社会人生活とは全然違っていたなあという感じはぬぐえなかったが。
| 1連で10枚つづり。たしか50円券が10枚だったと思った。会社と自分の負担が半々であった。(イメージ画像) |
食堂は、Bエムサービスという会社が運営していた。箸やスプーン、お盆だけ持って行って自分で各ブースに並んで盛り付けの人にメニューを頼む、という方式だったが、その時に食券を出して注文していたと思う。
食券は、食堂の出入り口に椅子と机がおいてあるが、そこに座っているおばさん(Kマタさん)に、1連綴りの物を何枚購入するかを伝え、代金を支払っていた。(つまり、各メニューの価格は、50円で割り切れる価格だった。)
5枚なら5枚、で枚数を伝えるといつも、「1,2,3,4,5枚。ありがとうございまーす。」と太めの大きな声で、1枚づつはっきりとした口調で数え、手渡ししてくれた。
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そこの責任者?だったのだろうか?よくわからないがそれっぽい雰囲気のZ田さんという男性がいたが、対応もスピーディな感じがするし気が利く感じでさすがな感じがとてもあった。いつもは頼りになる感があるのだが、残念な側面もあった。
おかずの盛り付けを担当されているときも時々あったが、運営側として節約上手・運営上手なのだと思うがそこが(こちらにとって)災いし、盛り付け上手なのだが、少な目によそっている感が見てわかり、うーん・・。という印象を受けたことがあった。そこはお客の食べる量を節約しないでよ・・、と言いたい気分になったりした。
(今は物価・食費上昇のあおりを受け、ステルス値上げの一環で量やサイズが減ったりしていることもあるが、それとその当時のことでは、場面が違いすぎている。)
| (画像はイメージです) |
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| 「きんは、百歳、百歳。ぎんも、百歳、百歳。」というなつかしのCM。 |
双子の長寿姉妹がCMに登場して有名となり、一世を風靡した。
双子であること、名前がきん・ぎん、と親しみやすく覚えやすいお名前であることから、あっという間に世間に広まったと思われる。
部署内に、五十歳台の大ベテランの独身女性先輩が二名いらした。その年齢まで働いてこられたお二人は、それなりの人生経験を積んだ先輩たちで、独特の強いキャラクター、強い個性を持たれ、職場でも自分の世界なりペースなりを構築されていた様子だった。話していても特に怖さや険を感じることもなかったし、年齢が違いすぎてこちらが相手にされていなかったような印象もあるので、ただ、上の人、という印象しかなかった。
当時の社内システムだと、女性事務職は、職位や給料が30歳でも少しあがるが、40歳になると大きく上がる感じであったし、偉い人、という印象があった。日本の年功序列・終身雇用の流れが濃かった時代である。お二人は当時すでに、自宅マンション(一人世帯用)を購入されたそうだったし、悠々自適の退職後?を過ごされている(いた?)だろうか。
そんなお二人を、職場の総合職男性(=「検印者」。自分から見ると年配の方ばかりの職場であった)たちが、「きんさん・ぎんさん」と茶化して呼んでいたことを覚えている。55歳で役職定年(再雇用制あり)、というのは今も同じだと思われるが、定年近いお二人だった。
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LTさん(女性の同期)は、システム関連部署への配属だったので、敷地は同じだが建物は違うものの、同じ若手同士だったしすぐに顔見知りになり、笑顔であいさつをかわす、フレンドリーな関係であった。
とても笑顔が素敵でかわいらしく、私はそんなLTさんと笑顔を交わすのが好きだったのだが、当時、スキーで足にけがをしたという話をきいた。松葉づえを使いながら足をひきずるLTさんだったが、笑顔が全く消えてしまって、私ともほとんど目を合わせたくないという雰囲気になってしまっており、すっかり灯が消えたような近寄りにくい雰囲気になってしまっていた。
それだけ本人は深刻だったのだろう。そんな本人と同じ体験を味わうこともできないし、同じ気持ちになることもできないので、LTさんの表情の激変にただただどうしてよいかわからなかった。隠れた人の気持ちを察するのはどちらかというと苦手な自分、今よりもっとバカでKYで、天真爛漫なふるまいをしていた私を見るのも、しんどくなっていたのかもしれない。
入社4年目で私の父が亡くなったときに、システム関連部署に多く入社・転入してきた同期の人たちがお香典をくださったのだが、そちらにLTさんの名前も入っていたが、いつのまにか実際に顔を合わせることはほとんどなくなっていた。
| 画像はイメージです |
営業店からの事務仕事を集中処理する部署なので、お客さんは一切来ないということ、本社中枢部から離れた部署でもあったことから、仕事を引き継いで持ってくる人もいたが、営業店や本来の部署の一線を、何かしらの事情で退いて(病気など)転入してくる人もいた。
Oさんも以前はバリバリと仕事をこなしていたものの、途中で心の病気になったらしく、転入されてきた。お願いすれば、検印などを押してはくれるものの、宙を見つめて何もしない姿勢を取り続ける姿がよく目に入った。それを見ていると、その当時はなんで何もしないのだろう・・、という疑問しかわかず、ただ見て見ぬふりをする以外なかった。が、後から考えると、自己防衛をとるための姿勢だったのかもしれない、という分析もできるような気がした。
他にももちろん、そこまで動作停止はしていないものの、同じような経緯で配置転換となってこられた人たちがいる。順風満帆な人生を歩んでいても、いつその風向きが変わるかは、全くわからない。ストレスで精神がこわれる、そんなことはよくある事象なのだろうか。正社員といえど女性はほぼ事務職、責任も給料も総合職とは違っていたので、上司からそんな言葉を言われる機会はなかったが、総合職はそれなりに大変だったのだろう。本人も要領が悪くいっぱいいっぱいだったり、シゴキがあったのだろうか。「この給料泥棒!」というのを上司から怒鳴られてからこわれてしまった、というエピソードもどなたかの話できいたことがある。
そんなOさんが、ある時に出勤時に先輩のNOさんが見かけると、駅から乗ろうとしていたバスのベンチに座り、立てなくなっていたそうであった。どうしたのか声をかけると、まっすぐ歩こうとすると、横に歩いてしまう、ということを話したそうである。その後、脳梗塞になっていることがわかり、入院し、退院されたかどうかは覚えていないのだが、しばらくしてからある時、亡くなられてしまった。
体や心をこわされて転入されてきた人もいたが、健康状態が思わしくない方もいて、途中亡くなられたりしたのである。
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| 画像は海外の人柱写真らしきもの |
総務の先輩N岡さんが、あるとき、こんなとんでもない話をしていた。私が若くバカな子だったので、からかっていたのだろうか?と思えるトンデモ話だった。
自分たちが今ここでこうしているビルには、人柱が埋まっているということ。それは、どのビルを建設するときも必ずそこに人柱というのが必要で、必ず根元に誰かが埋まっている、と言った話だった。
いや、普通に殺人罪でしょ・・。捜査されるんじゃ、と思うのだが、あまりに神妙な面持ちでまことしやかに話すものだから、ええ?、え・・?といったなんだかキツネにつままれたようなおかしな気持ちにさせられた、という記憶である。
人気テレビシリーズ「世にも奇妙な物語」のネタにでもできそうな話であった。
先日、娘も風邪をひいて、ルルはないの?というところから始まり(治りかけのため買わなかった)、近所のマツキヨでルルを見かけたところ、ふとこんなことを思い出した。
年に1回(10月くらいだっただろうか)、健康保険組合からの支給品ということで、いろいろなものがビニール袋に入ったセットがもらえた。たしか毎年その中にルルも入っていたのだが、白い錠剤で甘い糖衣、なじみやすいパッケージから、しばらくお気に入りの風邪薬として、家の常備薬となっていた時期があった。(買うのをさぼってしまって今は切らしている)
他に入っていたものとして、体温計、湿布、マキロン消毒液、胃腸薬、包帯?、ばんそうこう、打ち身用軟膏、目薬、などのそこそこ役に立つものが入っていた記憶がある。
会社も後年、合併や経営統合などで合理化などがすすみ、このようなものはもう配られていないかもしれないが、もらってうれしいセットだったことを覚えている。
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| なんと、大通り沿いのニトリにとって代わられていた。 |
ニトリからの買収は、2017年のことだったようである。すでに数年前から閉鎖されて、取り壊しが始まっていたのでとても寂しく思っていたが、周りの風景はあまり大きな変化は見られない。また頃合いをみて、周辺散策もしてみたいと思った。
跡地の隣にある建物などは昔のままのものもあり、そのまま思い出を残しながら建っている。
その当時、お茶菓子を買いに行ったケーキ屋のアントワーヌカレーム、たまに同期でお茶しに行ったカフェ・ノーマジーン、向かい側にフランス料理屋アージェント、総務課でお茶菓子を注文した風林堂や小川軒(レーズンサンドが人気だった)などがあり、意外に多くの店が現在も健在のようである。
他には、ブティック・ヴァンサンカンや、駅前の洋風居酒屋(雑居ビル上階)のOh La La、もあったがここら辺はすでにないと思われる。他には、大鳥神社バス停のそばにあった巨大肉まんの店(突発残業の時に買い出しに行き、一つあたり頭ほどの大きさの大きな肉まんが、夜食代わりにふるまわれた)もあった。現ニトリの向かい、二子玉川寄りには、青木病院という個人病院があったが、そちらもすでになくなっただろうか。目黒よりのほうには、デニーズもあったが。
(追記;目黒通りを碑文谷の方に行くと、日本オリベッティ(本社イタリア)と言う会社もあり、キーボード関係?入力用の機械の保守作業でお世話になっていたと思う)
と、いろいろなお店の思い出は後からどんどん出てくるが、元々あった会社の仕事は、他の大通り沿いのビルに移転し、続いているなら現在も、系列子会社の社員さんたちが業務を引き継いでいると思われる。これもずいぶん前だが、会社を退職してからそちらにアルバイトで手伝いに行ったことがある。もともとお世話になった課の課長さんが、人手が欲しく連絡をくれたためであった。その課長さんもかなり前に定年となり、そちらを退職されたというハガキをくださった。時代の流れは本当に早い。
部内移動のあった前のフロアは、6階、移動後の総務課は、たしか7階にあったと思う。7階の総務課のとなりは、パーテーションがあってそちらに、協力会社のパートのおばちゃんたちの常駐しているところ、他方にパーテーションはないが、第四課というところがあり、ATMカードや手形小切手を発行印刷したりする部署があった。
第四課に一つ上の先輩がいたが、職場以外での交流は特になかったが、とてもきれいでかわいく、ポパイに出てくるオリーブのような細い、手足の長い体型で色も白く、白人ぽい感じもある外見の先輩がいた。(もしかして、ハーフなどだったのかは聞かずじまいだったが)(N井さん)人事異動で本社からこちらに業務ごと移動してきたということだったが、入社2年目でかなりの重責なのではなかっただろうか。
| もちろん昔の話だし、一瞬で視界から消え去ったクマのソフビ人形だったので、イメージでしか覚えておらず、こんな感じだったかな?というくらいでしか写真は選べない。全体像は上の写真ぽくて、顔つきは下の写真が似たイメージかもしれない。 |