2025年5月11日日曜日

IBM5550

 

IBMマルチステーション、が正式名称なのだろうか。

当時、総務の仕事をしていた時に、IBM5550というコンピューターを使い、表計算を行っていたことを覚えている。今のエクセルと変わらず、範囲指定して計算数式・・=sum(xx:xx)やxx*xx、などを入れることによって足し算・掛け算の答えを出すことができた。

エクセルはろくに勉強していないが、当時の数式の記憶だけあり、そこは同じものが使えるので、貯蓄などの計算用に、適当に使ったりしている。

2025年2月20日木曜日

株式投資の明暗

 


「持ち株会」といって、自社株を買うというおすすめもなくはなかったのだが、金融機関と言うこともあり、株式投資をする方も多かったようであった。

直属上司だったL村さんは、株式で数百万もうかり、自宅の改築?資金として利用することができたといって喜んでいたが、ほかの先輩のIさんは、ひどく落ち込んだ様子で出社していたのでどうしたのかL村さんと話していたところ、L村さんいわく、株下落で損失が出たみたいだよと言っていた。

株は上下動があるので、精神的にはあまりよくなく、私には向いていないかもしれないと思う。

T藤さん

 

社内事務で取り扱っていた業務の一つ。


事務管理セクションがあり、そちらに初め、T藤さんがいたので、業務にかかわる取り扱いが煩雑なため、いただいた分厚いマニュアルもとてもわかりづらく、しょっちゅう社内電話で相談をして教えてもらっていた。

8Fのフロアまでよくいらしてくださり、教えてもらったのだが、いつも機嫌よくニコニコとされていて優しく、とても印象の良いナイスミドルな方だった。まあただこちらが、「なんだかよくわからず、こんなのを自分たちでやるのは大変だ・・。」という態度でいても、「大丈夫大丈夫!(にっこり)」という明るいお返事で返されていたのだった。ちょっと肩透かしな感じもしないでもなかったが。

そんなT藤さんも、別業務の管理者になって、同じフロアに社内異動となって来られたのだが、私がその後転勤・退職をした後の話だった。

(ご自身?奥様の?)株式投資?に失敗されて、自死されたということだった。同じ部署内の後輩経由からの情報だったので、正確には覚えていないが、そんな内容だったと思う。自分の入っていた生命保険の保険金で、損失を埋めてほしいというご遺志を残された?そんな話だったと思う。後輩のTさんが同じ課だっただろうか、Tさんはそれはもう、大変に悲しんで大号泣だったということだった。

T藤さんはそれはもう好感度の高い方で個人的にもいい人だと思っていたので、同じく、悲しいなと思った出来事であった。

2025年2月4日火曜日

KMさんとの年賀状交換

入社半年後に部内移動してから8Fのフロアーでは、仕事の種類も変わり、長くお世話になる方々とのご縁も広がった。

 嘱託さんとして勤務されていたKMさんとは、どの時点からかわからないが、年賀状交換をしていた。(自分の退職後だったかも覚えていない)前からすでに、KMさんはかなり年齢が上の人、という印象だったが、数年前までお年賀状の交換をさせていただいていた。とても心優しい親切な方で、私にもよくフロアーで、「xxさん、元気~?」などと声をかけてくださっていた。

KMさんは写真撮影がご趣味で、旅行にでたときの風景や、きれいに咲いているお花などの写真をお上手に撮影されては年賀状に載せてくださっていたのだが、すでにお年が八十台半ばに達したころに肺炎で亡くなられてしまったそうであった。奥様からのお手紙をいただき、さみしさを感じるとともに、年月の過ぎ去る速さを実感したのであった。

お隠れ席にまつわる不幸には、呪いの力が働いていたのだろうか

 

(ネット画像を加工)結局、「お隠れ席」を使用中に亡くなられた人は、L村さんを入れて3人になってしまった。実話なので、本当にシャレにならない。

職場で大変お世話になったL村さんという上司の方が「お隠れ席」とやや冗談半分で言っていた席が、席の配置の都合により、L村さんの席となってしまったのだが、L村さんは、「オレ、いやだよー。かんべんしてよ。」とその時はまだ笑いながら話していた。

が、結論から言うと、L村さんは、亡くなられてしまった。休日によくゴルフに出られていたようだったのだが、首の筋が激しくしびれる、ということをよく言われており、検査の結果、脳腫瘍が原因?のようであった。 入院が決まり、手術をされてしばらくしてから復帰されたのだが、しばらくしてまた再入院となり、1年ほどして亡くなってしまったのである。

休職中、奥様から暖かい肌着を探されていたという話を聞いて、当時会社で購買物のチラシなどの回覧が時折あったのでダマールの肌着パンフを、生地の見本付きでお送りしたところ、大変喜んでいただけたそうだったのでうれしかったが、私が配属先変更で転勤となった後に亡くなってしまい、とても残念だった。

 その後の話なのだが、退職後、少ししてたまたまそちらの職場の仕事のお手伝いを頼まれ、一時期アルバイトしたことがあった。

 職場でお世話になり、アルバイトのお声をかけてくださったO課長に、L村さんが気にしていたお隠れ席のことをきいてみた。すると「その席なら作業台にしちゃった♪ハハ」ニコーッ、とおちゃめなスマイルをされてしまい、微妙な気分になった。

 とにもかくにも縁起が悪すぎるので、気にはなった。さりげなく作業台として端にどかされたようだが、O課長の在職中はそのままで継続されたとしても、その後どうなったかまではよくわからない。その先は何かのはずみでまた、普段使いの席として回ってくる可能性も、ありえなくはなかったと思われたが、こちらも退職しており、そのことにはもう関われなかった。

 その後年月は流れ、今では年代物となったであろう「お隠れ席」が中古品として流れ出ないで、無事廃棄されていることを願うばかりである。



お隠れ席

(画像はイメージです)

 上司のL村さんが、「お隠れ席」と呼んでいた席があった。もちろん、外見上は何の変哲もない椅子と机なのだが、とにかく縁起が悪いと気にしていたのである。

古いブログでもこのことは書いていた記憶があるが、会社のブログも作ったので詳しく書いておく。お隠れ=亡くなるという意味であるが、文字通り、その席に座って仕事をされていた方がお二人、L村さんがそこを使われる前に亡くなってしまったのである。

一人は、脳梗塞を患って入院した後亡くなられたOさん(別記済み)、もう一人は、嘱託として勤務していたPさんであった。会社では一定数の障碍者雇用が義務付けられているので、Pさんは、総務課直属の嘱託さんとして雇用され、同じフロアー(8F)で毎日お見かけしていた。股関節の変形?で、歩き方に不自由があったようである。Pさんは、無類のお酒好き?だったようで、家に帰って晩酌をしながら、お家の方(奥さんだろうか)と、あーじゃない、こーじゃないと話をしながら一日を終えていく、そんな毎日を楽しく過ごされていたようであったが、晩年、肝炎を患い、それがもとで亡くなられている。

そんなお二人以外にも、下の7Fでも病気で亡くなられた方もいるので、人が亡くなるのは珍しくない話として接していたのだが、L村さんのネーミングにより、これはやばい席なのかなあ、と改めて意識するようになった。


2025年1月10日金曜日

くろちゃん

 

(本人とは似ていない)イメージ画像です

昼食の時間は、スペースは広いが同じ食堂や喫茶室に、同じ敷地内にあるビルでのすべての勤務者が時間差交代で食事をしに来るので、いろんな人がやってくる。同期のHちゃんが、あこがれの人を作った。(見出した?)。

あだ名は、「くろちゃん」で、なぜくろちゃんかと言うと、いわゆる黒服系イケメンボーイのイメージがあるからだという。システム系の協力会社の方で、後から私が部内転属を二度目にしたときに知りえたのだが、すでに奥さんも子供もいたし、本人はまじめでとても礼儀正しく、チームの責任者をされている、しごくまっとうな人であった。

確かに見た目は、黒目の肌、きりっとした表情、まあまあ整った顔立ちであったが、そんな彼にHちゃんは会社に来る楽しみを見つけ、あの人かっこいい!などと言ってルンルンしていたのであった。


2025年1月1日水曜日

元気お兄さん

 

記憶では、こんな感じのイメージである。


こちらが景気の悪い顔つき?で食堂に並んでいる中、ただ一人、ひときわ目立つ人がいた。

私たちで勝手につけたあだ名「元気お兄さん」と言われる、調理場側から食堂のご飯をよそって渡してくれていた元気のいい男性のことであった。

「いらっしゃいませ~!」「ありがとうございま~す!!」何がそんなに元気の源になっているのかはしらないが、とにかく明るくテンションも高く、調理場の他のおばさんたちが一言も発しない言葉を大声量で軽快に発し続けていた。

こんな私たちにそんな元気を発信したところで、何もいいものは返ってこないわよ、と思いながらもまあ、このお兄さんを見続けた。

と思っていたら、比較的短期間の間に、お兄さんの姿が見えなくなった。転勤でよその部署に配置転換になったか、いきなり何かの都合で退職してしまったかは知らないが、あの元気を見るとおそらく、それに釣り合う部署に転属したのではないか、と思った。


2024年12月31日火曜日

記憶の中のTシャツ

 大阪の梅田あたりで買った記憶のあるTシャツ。当時の柄を正確に覚えているのは無理だが、雰囲気だけ再現してみた。

こんな感じだったかも?しれない。



もっといろいろな線や柄が入っていたかもしれないが、思い出せないので、記憶に残っているものや雰囲気的な印象だけ描いておく。同期のHちゃんには、「そのTシャツ、ものすごくかわいいね!」ととてもほめられたのは覚えている。


 口紅やピアノの絵が入っていたような気がする。ピンク色の丸いキラキラとした透明ジェムビーズがついていて、良いアクセントになっており、関西的なセンスを感じたものだった。また、袖口や首、胴周りなどの端部分に、金色の糸でステッチが施されていた。

2024年12月30日月曜日

アフターファイブいろいろ

 

(制服があったので、各自、思い思いの私服で通勤していた)

ネット通販がなかったそのころ、買い物はオール現地で、ほぼ現金で、渋谷には良く買い物に出かけていた。

たまには合コンに出かけたり(それぞれの知り合いから引っ張って)、ダンススポットにも出かけたり、職場には全く魅力を感じなかったけれども、そうでない場所でそれなりに自由な時間を過ごしていたものだった。

同期で全く交流がなかったかというとそうでもなく、たまの飲み会や、車やバスでスキーなどには少し出かけたことがある。(カップルになる人はいなかったが)
 また比較的、本人の友人関係で多く飲み会に出かけて行ってしまうHちゃんは忙しそうだったので、Nちゃんと二人で五反田のティップネスに通ったり。

あとは、私は高校時代にバレーボールをしていたので、2つ下の後輩がバレー部に入ったという情報を聞いて、それについていく感じで一緒に入ったりしたこと。その中でもスキーにでかけることがあった。

卒業後にこのような仕事しかさせてもらえないののが不服で、学校に通いなおしたり。

 あれもこれも、実家から職場に通っていたために、家賃も食費もタダ、生活に関する経費は実質無料という、今でいう子供部屋なんちゃら、の状態だったから生活に関する苦労は全くというほどなかったので、あれこれできたのだろう。気分的に浮かないものの、9時ー5時まで真面目に働けば、体力的にきつい仕事ではなかった。現代のように、一生働く覚悟が必要な可能性があれば、悪い環境ではなかったものの、昭和の時代を生きた母親、女性は結婚して子供を育ててからが一人前、的な考えで育てられたので、いい人を見つけて結婚して、仕事はその次、という理想を掲げられてすべてをその方向に向けさせられた。
 自分が本当にそれを望んでいたかは別として、そう仕向けられたため、仕事できないやつはクズだ、的にこわい先輩たちや、ある意味あきらめきって機械的になっている中年上司たちが多かったその職場は、非常にしんどかった。(入社半年後の部内移動でフロア変更となり、雰囲気をかなり変えてもらえることに成功したのは幸いであり、会社を早々に辞めなくて済んでよかったと思う。)

 エネルギーの向くままいろいろやったのだが、親の言うとおりにコントロールされてばかりだった自分のできた限界の中でやれたのが、ここらへんだっただろうか。思えば、当時、若者としては楽しいと思われるはずのことをあれこれやってきたのに、納得して本当に楽しめていたのかというとあやしいし、気持ち的に、何かが違うと思いながら、あがき続けていた気がする。

その後、いろいろな人との出会いの中、自分が変わっていきたいなと思うようになって、自分の母親にも反発を覚えたりと、合うと思っていた人と合わなくなったり対人面の変化や紆余曲折が起きてしまい、長いことしんどかったが、後年、親の発達障害について理解したり、いろいろなことがあった。

自動車の運転

 

ラビスタ観音崎テラス、の写真。こちらかどうかはわからないが、このような大窓から、前面に海が広がるごキゲンな風景のホテルがあり、とても気に入っていた。

とにかく若かったので、遊びや人生の充実感が足りなかったので、いろいろなアフターファイブ、週休二日で死後となった「半ドン」後のいろいろなこともしたのである。

(私は高校卒業後の春休みから目黒の教習所に通い始め、夏の終わりごろ?普通免許を取得した。教科が結構覚えにくく苦労し、当時教習所にあった問題暗記用の「練習機」というのを借りてなんとかクリアした記憶があったが)同期の子はどちらも免許がない、またはペーパードライバー、と言う状況で(都内なので必要性もなく)、私だけが運転可能な状態だった。

そこで、そのころは勢いだけで運転していたいい加減ドライバーだったので、自宅からノリで適当に、道路標識を見るだけで「観音崎」というところまでたどり着いて、またノリで適当に帰ってくることができた。半ドンの後、そこに二人を乗せて連れていったこともあった。(今はノリだけで行動するほど軽率ではなくなったため、かえって注意深くなって運転が嫌いになってしまった)

免許取りたての頃の私の技術をある程度までサポートしてくれたのが、亡くなった父で、よく新宿にある父の会社のビルまで運転したり、祖父母の家まで運転したりと、何かと隣に同乗してくれて、その安心感で、ただただノリだけで運転をさせてもらっていたのである。

OLのゆううつ

 


事務の集中部門なので、やっつけ仕事というのか。給料がもらえるのは大事だが、仕事への喜びは全くないと言えた。

総合職男性もみな40代以上で、検印者としてだけの責任を果たすために、転入してきた感があり、9時~5時まで仕事さえしていれば、給料が出て安泰であるというお役所仕事感がすごいというか、新入社員にとっては取りつくしまがないどころか、検印をもらう意外には、背景くらいでしかない存在感に近かった。

3人で昼休みに食堂でご飯を食べ、喫茶室に移動し、時間が来たら職場に戻るのだが、何を話していたかというと、どんな会話だっただろうか。

職場内の人のうわさなら、ひそひそ話だが、あとは、当時見ていたドラマの話(これは、自分は話合わせのために見ていたというしかなかったが)や、なんかいいことないー?という二人からの愚痴のようなセリフや、まったく、あまりいい感じとも思えない、ありきたりのOLの日常であったと思える。

Nちゃんがよく、仕事にもどりたくないー・・、としょっちゅう口にしていた。私はそんなことを食事中に思ったり口にすることはなかったのだが、Nちゃんはそうだったのだろう。もちろん、なんだか期待していた社会人生活とは全然違っていたなあという感じはぬぐえなかったが。


喫茶スペースにて

 


他のメニューまでは記憶に残っていないが、コーヒー・紅茶はあった。
Nちゃんと私はアイスミルクコーヒー、Hちゃんは紅茶をほぼいつも飲んでいたと思う。

アイスミルクコーヒーは、略してアイミコ、と呼んで注文していた。

カウンターに立って注文をうけてくれていたおばさんが何人かいたのだが、覚えているのは、水色のサングラス?をかけていた、やや目つきのクールな感じのおばさんと、私は全く気にしていなかったのだが、注文を受けてから出すまでの時間がかかりすぎてノロイそうで、いつの間にか「トロちゃん」と呼ばれるようになったおばさん、が記憶に残っている。

アイミコは、足すものを注ぐだけなのであっという間にできあがるが、紅茶はそうはいかなかった。茶葉からきちんとお湯を注いで出すため、待ち時間が長いのである。注文してから受け取るまで、その所作が時間がかかり、うーん、面倒くさいメニューなのだなあと良く思い、Hちゃんもまあ、好きなのだからしょうがないなあと思いながら見ていた。

サングラスのおばさんが、若い女の子が娘のように感じたのだろうか?、Hちゃんが時折、アメをもらった?だっただろうか、何か特別おまけをもらったようなことを言っており、「かわいい子は得するのよ。」と、わざわざ自慢げに言っていた。ええ、なに?と思ったが、同じく自分たちも何かをもらえていたような記憶があったが、詳しい中身は覚えていない。




お茶する場所は、食堂とは別のところ

 

画像はイメージです。室内に机といすがあり、ごく一部のスペースには、ソファ風の安楽椅子が置いてあったが、全員座れるほどではなかった。スペースの割に詰め込まれた感があり、椅子の背もたれ同士の距離が近く、着席時や席を立つとき、後ろの人の椅子に当たらないように気を付けなければいけなかった。

食事が終わると、喫茶用メニューを出しているところが別にあるので、いったん建物を出て渡り廊下を通って別棟の建物に入り、喫茶スペースで飲み物を注文していた。

話が変わるが、こちらを先に記載しておく。

入社当時、新入社員は同期3人しかいなかったので、とにかく固まって行動していた。若手は本当に少なく、若くても高校卒業後に入社しているのでベテラン、という先輩、またはすでに職場に完全にとけこんでいる先輩は、少しだけいた。その部署は、他の部署や営業店で事務をしている事務職女性たちが、あちこちから転勤によって集まってきた部署だったのだ。つまり、ある程度経験を積んでから、こちらの部署に来ているのである。

後方事務の集中部門なので、来客はない。いわゆる銀行の窓口のように、お客さんは来ないのである。そこで、仕事はできるがクセが強くて接客向きではなさそうな人?もこちらに転勤させられる傾向があったと思われる。

 職場の雰囲気も怖い大ベテランの先輩が幅を利かせていたし、先輩たちとは異質な感じがしてなんだかボーっとしているといろいろ言われたり怒られそうだったし、なじめなかった。その部署で初めての新人、という状態だったので、別人種だと思われても仕方がない。

いつも3人で固まっていたため、総務課長さんからは、「三羽ガラス」といじられていたが、それもいたしかたなかった。


食堂用食券とKマタさん

 

1連で10枚つづり。たしか50円券が10枚だったと思った。会社と自分の負担が半々であった。(イメージ画像)

食堂は、Bエムサービスという会社が運営していた。箸やスプーン、お盆だけ持って行って自分で各ブースに並んで盛り付けの人にメニューを頼む、という方式だったが、その時に食券を出して注文していたと思う。

食券は、食堂の出入り口に椅子と机がおいてあるが、そこに座っているおばさん(Kマタさん)に、1連綴りの物を何枚購入するかを伝え、代金を支払っていた。(つまり、各メニューの価格は、50円で割り切れる価格だった。)

5枚なら5枚、で枚数を伝えるといつも、「1,2,3,4,5枚。ありがとうございまーす。」と太めの大きな声で、1枚づつはっきりとした口調で数え、手渡ししてくれた。

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そこの責任者?だったのだろうか?よくわからないがそれっぽい雰囲気のZ田さんという男性がいたが、対応もスピーディな感じがするし気が利く感じでさすがな感じがとてもあった。いつもは頼りになる感があるのだが、残念な側面もあった。

 おかずの盛り付けを担当されているときも時々あったが、運営側として節約上手・運営上手なのだと思うがそこが(こちらにとって)災いし、盛り付け上手なのだが、少な目によそっている感が見てわかり、うーん・・。という印象を受けたことがあった。そこはお客の食べる量を節約しないでよ・・、と言いたい気分になったりした。

(今は物価・食費上昇のあおりを受け、ステルス値上げの一環で量やサイズが減ったりしていることもあるが、それとその当時のことでは、場面が違いすぎている。)


阿部君


モデル時代?若かりし頃の阿部寛

職場のT先輩が、俳優の阿部寛と小学校が一緒だったということだった。「阿部君、メンズノンノのモデルしてたけど、そのあとだんだん有名になっていったわ」的な話をしていた。話としては、それだけだったし、先輩にとっても、遠い存在の人なのだなあという感じであった。

小学校が一緒だっただけで、縁もゆかりもない人はごまんといるが、話題としてはまあ、なしではないのか。とても濃い顔のイメージだが、若いときの写真を見るとなかなかのイケメンだったようだ。小学校の時もダントツに背が高く(今は189cmもあるらしい)、イケメンだったのだろうか。


2024年12月12日木曜日

この子の顔を見るとね


(画像はイメージです)


産休明けから復帰したある先輩Tさんの話。復帰からほどなくして退職することとなり、入館証などの回収を行った。

先輩のNさんが、本人からこんな話をきいたのだそうだ。「産休明けからまた仕事を続けようと思ったのだけど、この子の顔をみたらね・・。」ということだそうだった。

 少し変わった趣味の方で、ボディビル?をやっていたそうなのだが、それを通じて知り合った方が旦那さんということだった。結婚前は性格もややきつい方だったようだが、結婚したり子供が生まれたり、その都度だんだんと丸くなっていったということだそうで、それは良かったのでは、と思われる。人生のパートナーとの出会い、新しい家族の誕生を通じて、自分のあるべき姿や道が見つかったのだろうか。

 お子さんが生まれ、退職前にその言葉を残されたそうだが、それは心に残り、なんだか聞いていてとても尊いなあ、という感じがした。




「I」の乱

会社にいると本当にいろんなことがあり、こんな事件があった。とある課長代理さんだった方が、部店長に対して、反旗をひるがえし、何かについて激しく非難し、「私はそんなあなた(部長)にはとても賛同できないし、ついていく気持ちもありません!」的な意見表明をしたようだった。

とにかくかなり前の話だったし、私自身ボーっとしたOLで、もっと理解力があれば、元となった原因についてもっと把握できていたかもしれないが、それについてはわからず、ただ、おそろしく反発していたなあと言う印象だけが残っている。

社内で通常業務外のことを意見したり報告する場合は、「稟議書」というものを書いて提出し、課長や部次長の検印をもらった後、部店内で回覧した。(画像はイメージです)


それとは別に、Iさんの気性が激しすぎるのでは、と思ったことがあった。部長は三浪して今でいうMARCH大学を出ていた(業務上知りえた個人情報だった)が、Iさんはそれをどこかから聞いて知っており、そこをあげつらって、「P部長ってよ、三浪だってよ。バ〇じゃん。」と、エレベータ内でだっただろうか、本人のいないところで思い切り悪口を言っていた(本人は地方の大学出身)ので、それはちょっとひどいなあ、と思ったことだった。


2024年11月17日日曜日

きんさんぎんさん

 

「きんは、百歳、百歳。ぎんも、百歳、百歳。」というなつかしのCM。

双子の長寿姉妹がCMに登場して有名となり、一世を風靡した。

双子であること、名前がきん・ぎん、と親しみやすく覚えやすいお名前であることから、あっという間に世間に広まったと思われる。

 部署内に、五十歳台の大ベテランの独身女性先輩が二名いらした。その年齢まで働いてこられたお二人は、それなりの人生経験を積んだ先輩たちで、独特の強いキャラクター、強い個性を持たれ、職場でも自分の世界なりペースなりを構築されていた様子だった。話していても特に怖さや険を感じることもなかったし、年齢が違いすぎてこちらが相手にされていなかったような印象もあるので、ただ、上の人、という印象しかなかった。

 当時の社内システムだと、女性事務職は、職位や給料が30歳でも少しあがるが、40歳になると大きく上がる感じであったし、偉い人、という印象があった。日本の年功序列・終身雇用の流れが濃かった時代である。お二人は当時すでに、自宅マンション(一人世帯用)を購入されたそうだったし、悠々自適の退職後?を過ごされている(いた?)だろうか。

 そんなお二人を、職場の総合職男性(=「検印者」。自分から見ると年配の方ばかりの職場であった)たちが、「きんさん・ぎんさん」と茶化して呼んでいたことを覚えている。55歳で役職定年(再雇用制あり)、というのは今も同じだと思われるが、定年近いお二人だった。


2024年11月14日木曜日

LTさん

 

(イメージ画像)

 LTさん(女性の同期)は、システム関連部署への配属だったので、敷地は同じだが建物は違うものの、同じ若手同士だったしすぐに顔見知りになり、笑顔であいさつをかわす、フレンドリーな関係であった。

 とても笑顔が素敵でかわいらしく、私はそんなLTさんと笑顔を交わすのが好きだったのだが、当時、スキーで足にけがをしたという話をきいた。松葉づえを使いながら足をひきずるLTさんだったが、笑顔が全く消えてしまって、私ともほとんど目を合わせたくないという雰囲気になってしまっており、すっかり灯が消えたような近寄りにくい雰囲気になってしまっていた。

 それだけ本人は深刻だったのだろう。そんな本人と同じ体験を味わうこともできないし、同じ気持ちになることもできないので、LTさんの表情の激変にただただどうしてよいかわからなかった。隠れた人の気持ちを察するのはどちらかというと苦手な自分、今よりもっとバカでKYで、天真爛漫なふるまいをしていた私を見るのも、しんどくなっていたのかもしれない。

 入社4年目で私の父が亡くなったときに、システム関連部署に多く入社・転入してきた同期の人たちがお香典をくださったのだが、そちらにLTさんの名前も入っていたが、いつのまにか実際に顔を合わせることはほとんどなくなっていた。